もう、何年も前の話。わたしが早稲田でジャーナリズムを学んでいたとき、ひときわ印象に残ったのが芥川賞作家・辺見庸(へんみ よう)氏の講義でした。『従軍作家と戦争文学』みたいな講義名だったと思います。
題材となったのが、太宰治の短編『十二月八日』。太平洋戦争開戦時、庶民が戦争をどのように受け止めていたかを、ユーモラスに描いた短編として知られています。
しかし、辺見氏によれば、これは戦争批判の文学である、とのこと。講義の記憶をたどりながら、改めてこの短編を考察してみたいと思います。
太宰治の短編『十二月八日』あらすじ
主婦の一人称で語られる、戦時下の日常
この小説は、作家の夫をもつ主婦の手記、という形で書かれています。書き出しは、こんな感じ。
昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いておきましょう。
のんきな主婦の“私”は、昭和16年(1941年)の12月8日の早朝、近所のラジオからこんな放送を耳にします。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西大西洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
これ以降は、地理に疎い夫に呆れたり、隣りの奥さんと他愛もない話をしたり・・・ふだんと変わらぬ庶民の日常がユーモラスに綴られてゆきます。
“学のない”主婦がもつ反米感情!その思想を形作ったものとは?
ところが中盤。のんきな主婦であるはずの“私”が、ギョッとするような物言いで、敵国に対する怒りをあらわにします。
本当に此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。
主人公の“私”は、高等教育も受けてないし、(作家の妻ではあるけど)好んで本を読むタイプでもありません。彼女の思想を形作っているのは、新聞やラジオです。
つまり、ごく普通の主婦に反米感情を植え付けるほど、プロパガンダ的な報道が日常的になされていたことを示唆しているのです。主婦の過剰な反応を通して、戦争批判をくり広げているのです。
なぜ、こんなまどろっこしい表現をするのか? その理由は、言論統制が行われていたからです。
考察:言論統制の時代に書かれた戦争批判とは?
日中戦争から太平洋戦争にかけての時代、文学作品への規制は厳しく、戦争批判など書いたものなら発禁処分を受けてしまいます。
文学者たちはこぞって、国威発揚をうながす作品に加担していました。政府の求めに応じ、陸軍や海軍に同行し、従軍作家となった者もいました。財力がなければ発表する場もないので、食っていくために従軍する道を選んだ作家もいます。
そんな中、太宰が従軍することはありませんでした。
『十二月八日』には、こんな描写もあります。ラジオから流れる日本軍活躍の情報を聞き、目を輝かせる主婦の“私”。彼女は銭湯にいった帰り、夜道に迷ってしまいます。すると、作家である夫が迎えにきてくれます。
夫は、妻にこんな言葉を投げかけます。
「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
これは、自分の頭で考えることをせず、報道をうのみにして“鬼畜米英”をとなえる国民を暗に批判していると思われます。
【道に迷った妻に呆れる夫】というのはカモフラージュで、検閲に引っかからないように巧妙に戦争を批判していたのです。多くの作家が社会の空気に流されて戦争賛美に走る中、太宰は作家としての信条を見失わなかったのです。
『十二月八日』は、20分もあれば読了できる短編です。戦争の記憶が薄れつつある今だからこそ、多くの人に読んでほしいと思います。
最後に、辺見庸氏について補足。元・共同通信の記者で、『自動起床装置』で芥川賞受賞。
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