映画ときどき海外ドラマ

テレビ放送される映画や海外ドラマを通して、もっと映画を好きになれるブログ

『ナイトクローラー』感想!みんなだって胸糞悪いサイコパスかもしれない

  当サイトにはプロモーションが含まれます

スポンサーリンク

『ナイトクローラー』感想!みんなだって胸糞悪いサイコパスかもしれない

他人の不幸で飯を食う人間は、サイテー。週刊誌の記者もワイドショーもサイテー。こういった人たちを“マスゴミ”などといって揶揄する人はたくさんいます。でも、

不倫した芸能人を叩く連中はどうなの?

金銭を受け取った芸人さんを、上から目線で批判する連中はどうなの?

 

そんなことを考えさせる映画があります。ダン・ギルロイ監督作『ナイトクローラー』です。

 映画『ナイトクローラー』概要とタイトルの意味

  『ナイトクローラー』は2014年の犯罪映画。犯罪現場を追いかけるフリーのカメラマンを通して、視聴率至上主義に走るメディアに問題を投げかけた作品です。

ナイトクローラー
原題 Nightcrawler
製作国 アメリカ
公開年 2014年
上映時間 118分
監督 ダン・ギルロイ
脚本 ダン・ギルロイ
出演 ジェイク・ギレンホール、レネ・ルッソ

 原題は「Nightcrawler」。「crawl」はミミズや毛虫などが這う(はう)ときに用いる動詞。「Nightcrawler」で「夜の闇を這いずりまわる者」という意味となります。

映画『ナイトクローラー』内容

学歴もコネもないルイス・ブルーム(ジェイク・ギレンホール)は、ある夜、自動車事故の現場を通りがかります。ルイスの目に映ったのは、悲惨な事故現場をカメラに収め、テレビ局に高く売るカメラマンの存在でした。

 

「あんなに高く売れるなんて・・・」

 

カメラマンに触発されたルイスは、ビデオカメラと警察無線を手に入れ、強盗が襲撃したあとの現場を撮影します。ルイスは、撮った映像をローカルTV局の女性プロデューサー・ニーナ(レネ・ルッソ)に高く売ります。

 

ルイスは刺激的な映像を求めて、夜のロサンゼルスを這い回るようになります。やがて、彼は一線を越えるようになり・・・ 

 考察:みんなだって胸糞悪いサイコパスかもしれない!

ジェイク・ギレンホール演じる、胸糞悪い主人公・ルイス

この作品を観て、誰もが感じるのが主人公・ルイスの気持ち悪さです。えり足の長い髪の毛。やせこけた顔にギョロっとした目玉。

 映画サイトの感想を観ると、「ルイスはサイコパスである」という映画評が目立ちます。ただし、彼の人物像は私たちがイメージする“サイコパス”とはちょっと違います。

  

盗んだ時計をスクラップ業者に売る時は、自分を売りこみます。動画の値段交渉では、プロデューサー相手に一歩も引きません。アシスタントが必要だと思えば、金に困った若者を言いくるめて部下にします。

 社交的で努力もするし、戦略も考えている。その意味で、ルイスは成功者です。だけど、1ミリも応援したくならない成功者です。そこに、人間的な感情が欠落しているからです。

 

 

ルイスには、友達もいないし家族もいません。それでも寂しさを感じさせません。彼の喜びは、自分の撮った動画が拡散されること。人々に認められること。ルイスは、承認欲求のかたまりのような人間なのです。

サイコパスはそこにいる、というかあなた自身かも

  『ナイトクローラー』の主人公・ルイスは気持ち悪いし、人間のクズです。だけど、彼だけを社会変質者として、突き放していいものでしょうか?

 

ルイスのパーソナリティを抜き出してみると、他人事には見えなくなってきます。 

  • ネットで知った安っぽい教訓フレーズを口にする
  • 承認欲求が欲しくて、SNSでもっともらしい意見を拡散する
  • 人間関係においても、効率を重視する
  • 人を傷つけても、罪悪感がない

 特徴だけみると、ルイスのような人間は決して珍しくはないことがわかります。私だって、当てはまる箇所があるので。

 

 

映画の後半、ルイスは警察の取り調べを受けます。刑事の訊問に答えたあと、彼は署内の監視カメラに向かって、こう語りかけます。

人の破滅の瞬間に顔を出す。それが僕の仕事だ!

 カメラ目線になることから、実はこのセリフは観客に向かって投げかけられた言葉だとわかります。

 

人の不幸をネタにした週刊誌も、ワイドショーも、その人を破滅に追いこむきっかけになります。だけど、それを喜んで見ている人間、誹謗中傷ツイートをして“いいね”を稼いでる人間も同罪です。

(⇦ 当事者でもないのに、浮気された妻に同情ツイートをするのも誹謗中傷と同じ)

 

人を食い物にしても、金を稼いだほうが勝ち。“いいね”を獲得したほうが勝ち。そんな風潮がまかり通っています。私たちは、人の痛みを想像する力を失いつつあるのではないでしょうか?